ものを書く行為自体よりも歴史の浅い、文学という概念の出現は哲学的、政治的理由から、約50年間議論がなされてきました。哲学者たちは宗教的遺産としての見解を強調してきました。つまり、キリスト教の聖書の位置づけや、それの読まれ方に文学という概念が寄るということです。具体的にアメリカの多くの学者たちは、人々が読むべき特定の古典がある、という考えを否定しています。文学的な型にはまった規範に異議を唱えています。それはその型以外の文章スタイルを普及させないためと、白人男性の権威を維持するための植民地支配の道具とみなしているからです。又、文学というはっきりとした基準はない、という者もいます。テレビのコマーシャルでさえ文学とみなす者もあります。

文学を勉強する者はいわゆる「古典」といわれる小さな部類の書物を読むだけではなく、より多くの類のドキュメントを読むべきだと言われています。
理論の授業ではないので、これ以上の論議は避けますが、このことを覚えていて下さい。一緒に勉強する題材の選考に反映されています。
私の見解としては、いわゆる古典文学は重要ですが、他の形のドキュメントも文学と見なしてよいと思います。それでは、文学とは何でしょう。書く、出版する、教える、歌う、保管するなどの機能が新しく出てくるに従い、文学の意味も変化し続けるので定義するのは難しいことです。しかし一般的に通じることではありませんが、米文学史の授業において文学は、商業的ではない手段で北中南アメリカの人々の生活を知る、ということが創造の根源となっているドキュメント (本、詩、歌、演説など)、と考えることにしましょう。つまり、作者の資本的利益のために作られたものではないドキュメントということです。
フィリップ アダメック
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